昭和五十六年一月十日 朝の御理解
御理解第九十二節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
昨日は、中村徹美先生が正奉仕をしております。いろいろと記録が残されておる。小さい字で書いてありますから、この頃読めませんけれども、今ちょっと見せてもらったら、ここの所感という所だけを筆で書いておりますから、大きく書いておりますから、ちょっと読ませて頂きましたが、こういう事が書いてある。
「親先生の動きには無駄がない。神の前に近づきたい。親先生の動きを捉え、親先生の動きについて行きたい。そこから自分自身の動きも在り方も無駄の無い一日が頂けてきそうである。」と所感に書いております。皆さんもそういう同感をなさる方が合楽では沢山あるだろうと思うですよね。
昔は、毎月御本部参拝をさせて頂いておりましたが、どういう例えば混雑の中にあっても、まあ勿論三十人か四十人の多い時で五十人位の御参拝でしたが、どんなに、あの昆でおっても、私が乗った汽車に必ず皆乗りましたですね。親先生と一緒にさえ行動しとれば間違いがないというのですよね。普通だったら列車が楽そうな所へ皆がバラバラに乗るとでしょうけれども、当時から、当時の椛目からの御信者さん方の場合皆がそうでした。これは、御本部参拝の事だけじゃありません。もう親先生がしよんなさるとおりしよりゃよかと、それでもう、そん時は立錐の余地もないごと一ぱいこう乗っておっても、一駅か二駅行きよるとずうっと空いて皆が掛けられるといったようなおかげを頂いておりました。そういう意味でなら皆さんも体験があるでしょう。
昨日、中村先生が書いておるのもそういうような、あの意味だと思うですよ。先生の動きには無駄が無い。だから先生の動きを捉えて、そしてそれを自分の上にも頂いていっておれば、自分の上にも間違いの無い働きが頂けそうにある。と、まあ一つの発見かもしれません。今迄気が付いていなかったのかもしれません。例えば正奉仕をさせて頂き乍ら、そういう事を強くまあ感じたのではなかろうかと思います。
今日の御理解で申しますと、守々の力という事ですが、その守々のいうならば、その教会の守をしておる先生の言われる通りしておりさかよかとか、先生の動きの通りにして行きさえすれば間違いがないと信じられる。いうならば守々になったら絶対のおかげですね。絶対の御比礼ですね。教会も必ず繁盛するでしょう。又信者もおかげを受けるでしょう。いや力も徳もそれに神習っていくなら必ず受けるでしょう。
私は、そういう意味の事を教祖様はここではおっしゃっておるのだと。金光様と、どこでも金光様、天地金乃神様、教祖生神金光大神様の御取次を頂いて、そのお手代わりをしておる先生、同じなのにどうして比礼が違うかというのは、そういうところなんだという訳でございます。
こりゃもう私の身近に例えばおりますならば、子供達でも家内でも、特に久富繁雄さんあたりのように、いつも側で御用して下さる方は、結局私が何んでもない動きの中に、いや間違いが無いなあ、間違いが無いなあといったようなものを側で感じるから御用がしんみり出けるじゃあないでしょうかね。
まあ先生があげな無理な事言いよんなさると思うような事もあるかもしれませんけれども、その無理な事が神乍らである。あげなざあっとした事しよんなさるがあれでいいじゃろうかと。そのざあっとした事がそのまま神乍らである。だからやはり神乍らについていかずにはおられんという事になる。そこになら御信者、私、神様との三者一体の一つのルートというか、おかげのルートというものは、そこにあるのです。金光教の信心はそうです。取次によって助けられるという事は、そういう働きの中から生まれて来るんだというふうに思います。
昨日もちょうど私はここを四時に、三時から研修があって、それから四時前にいつも終わります。そして四時から御祈念に入って四時半に御祈念終わって大体下がります。
昨日、私、ここを電気を消して立とうとする時に、前に一回参って来たことのあるんだそうですけれども、私は初めてと思ったんですけれども、の方が参って来ておる。それが先だって娘さんのお産の事がお願いしてあって、安産のおかげを頂いて、これから又東京に帰ってまいりますので、又どうぞよろしゅうという事の願いであったが、初めての方ですからね、私が例えばもう立っておったら、もう三十分間ここで待たねばならない。まあ三十分間待つという事も、ひょっとすりゃ待たれないかもしれませんけれども、間髪を入れずですね、そういう働きがある。
ちょうどおかげ頂きましたねと言うて、まあ又思うたんですけれども、あの神様が筆を持つ持ち方、例えば習字の稽古する時に、先ず墨のすり方やら又は筆の持ち方やらを教えられるでしょう。その筆の持ち方を教えるところを頂いた。
ははあ四時の御祈念に、まあ一分ばっかり遅れる事になりましたけれども、その遅れた事も今度新しくお参りしてくるその氏子に筆の持ち方を、私がなら金光教の信心とはああだこうだと説明をした訳ではないけれども、そういう雰囲気に、はあ金光様の信心ちゃというようなものを少し分かった訳、筆の持ち方が分かった訳。
そして、私がここを下がってくる時には、もう居られませんでしたから、途中で帰られたらしいんですけれども、それだけでも金光様の信心、ここに先生方がいっぱい四時の御祈念を頂く為に一緒に御祈念をしとります。何かそこに敬虔な、まあ祈りというか、信心の雰囲気といったようなものでも感じて帰ったに違いないです。又神様は筆の持ち方だけでも教えておくというものが、私は教導しないけれども、そういう雰囲気の中から教えられたんだなあというふうに思うんです。だから、私が一分早う座っとりゃ、その方は私が御取次が出けない事になる。
昨日はいつも三十分で下がりますけれども、ここに下がった時には二十分で下がって来た。もうあと十分あった。だからあとの十分私はやっぱ半まで必ず座るとは座るんです。そしたら途端に電話が掛かってきた。その電話がいうならば大変な電話であった。私がもし御祈念中であった、もし電話が掛かってきた。只今、親先生は御祈念中というなら、どういう事になっとっただろうかと思うようなお届けであった。
例えばそういうような状態をいつも見たり聞いたりしておると、いうならやっぱり親先生の動きにやあ、動きそのものに間違いがないなあと感じてくるのも当然だと思う。例えて言うと、そのお届けはどういう事かと言うと、息子さんが倒産して、その里の方の家を抵当にしておった。それが期限切れでいよいよもう競売になる訳。りっぱな大きなお家らしいけれども、それを競売で落とされたら六百五十万にしかならない。ちょうどそこへ千五百万位迄なら買おうという買手が来とるがどうしましょうかというお伺いであった。それも今返事しなけりゃならんというのであった。それで私、あの電話を頂き頂き神様にお願いさせて頂いておりましたら、大きく山という字を頂いた。そしてその下に小さく石という字を頂いた。
どげんなりますか。山という字を書いて石という字を書いたら岩という字でしょうが。山という字が、大きな山という字が書いてある。石という、だからそれこそ動かざる事山の如しというように、私がここで動かなかったら、はあそんならその六百五十万で落とされるよりも、千五百万で売ったほうがよかのと、まあ言うところでしょうけれども、神様はそげな事は相手にするな。六百五十万でおてたっちゃ、どん腹据えてから、もう断っとけ。もう相手にしちゃならんという電話であった。私の心の中に、それこそ動かざる事山の如しという山の心で取次させて頂いた。石というのは石(意志)は心であろう。ですから本当に間髪を入れずそこにいうならば、或る大きな運命が右になるか左になるかといったような間髪を入れないような御取次なんかの場合、私がいつものように三十分間座っとったらその御取次が出来なかったかもしれん。こげな訳ですから、お願いしとって下さいと言うて電話が切れとったかもしれん。神様がおかげを下さろうとする働きが、なら私を十分間早くここへ座らせて下さった途端に電話が掛かってきた。
そういうようなもようはね、見たり聞いたりしておると段々こりゃ親先生の動きというものに間違いない事をいよいよ確信してくるだろう。ここにお参りさせて頂いて、やっぱそうだと思う。親先生の言われる事に間違いはないと確信が強うなってくるから、例え願った事が右であろうが左であろうがです、はあこれは神様の御都合に間違いがない。
もう昨日は一日、前の日の福引つきの御理解の、本当に間違いない働きに恐れ入ってしまうというようなお届けがずっと続いとった。だから、そういう間違いない働きをいつもまのあたりに見せて頂き聞かせて頂いて、そして私の動きをこうやって見ておられるから、そこにいよいよ親先生を信じ神様を信じ、そこにどのような場合であっても今のようなそれこそ運命の岐路に立つような時であっても腹が座るようなおかげになってくるのじゃないでしょうか。
まあ今日の御理解と少し意味が違うようですけれども守々の力によって比礼が違うのぞとおっしゃるのは、例えばその守の力というものが信者から親先生の動きさえついて行けばよいという位な、言うならば信用を御取者は頂かねばいけんのだなあ。
又、なら信者とてもそういう信心を見習い聞き習いさせて頂いて各々の家でも、例えばお父さんの信心しとるなら、こういう問題が起こったというような時でも、お父さんがびくともせんような風にしとるから大丈夫と家族中の者が安心を与える事が出来るでしょう。
各々の家の比礼が違うというのは、その神様を信ずる力のあるなしにかかわるのです。はあお母さんが心配しなさんなと言うたから、家中の者が安心が出けるという位なお母さんの信心がやはりでけなければ、出来ていかなければならん。そこに家々の又比礼も違ってくる訳です。
合楽はそういう意味に於いて有難い。神様をいつも目のあたりに見るように聞くように御教導頂いておるという事を改めてね、合楽に御縁を頂いておる人達はお礼を申し上げねばいけんのじゃないだろうかといったような事を今ちょっと、このね、昨日の日誌を見せて頂いて中村先生が書いておるそれを見て、又思わせて頂いた事ですし、今日の九十二節にまんざらつながらないという事もない。
それが、又皆さんの家庭の上にもそういう働きが、はあ、もう何かが起こったら、そのいうならシンである中心の者が慌てふためいておったら、家中の者が慌てふためなきゃならん事になる。「よかて、神様の御都合に間違いない。心配するな。」と、こう言えれる。それが又家族の者が信じられるような一つ信心を頂きたいですね。どうぞ。